村上春樹新作「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」と東日本大震災

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年


「たさき」とパソコンで打っても、多崎とは変換されない。(小説内で、ふりがなは“たざき”となっている)主人公にこのような名前を敢えて付けてくるのには、必ず著者の意図がある、と考えるのが自然だ。特に本作は、他の登場人物の名前にはこだわりと意味を持って設定されているし、そもそも記号論を紐とくまでもなく、文学や芸術にとって「名前」というのは重要な概念だ。(分かりやすいところでは、「千と千尋の神隠し」のストーリー)

そこで気になるのが、東日本大震災の事である。僕は、村上春樹が今のタイミングで次回作を出してくるならば東日本大震災の影響が織り込まれるはずだ、と予想していた。というのは、作家は出身地でもある阪神間で起こった震災には深く影響を受け、「地震のあとで(後に、「神の子どもたちはみな踊る」として出版)」という連作小説を書いている。他にも、オウム真理教の問題にも深くコミットしており、これらが合流して『1Q84』という総合小説に結実した。よって、今回の新作には現代の日本にとって最もアクチュアルな問題である東日本大震災原子力問題が織り込まれてくるかもしれない、という予感があったのだ。


そんな予感を持ちながら新作を読んでみると、ちょっと拍子抜けするほど昔の村上ワールドに戻った感じで、地震を想起させるほのめかしは無い。これにはちょっと、拍子抜けした。

しかしながら、やっぱり主人公への「多崎」っていう命名は何なのだろう、と考えざるを得ない。実は小説内では、下の名前の「つくる」に関しては説明がなされている。しかし、多崎というネーミングについては、一切の言及がない。それだけに余計に気になる。たさき、なら普通は田崎だろう。あえて崎が多い…三陸、東北の沿岸…という想像をしてしまうのは、もはや止められない。作中でこの主人公は、突然の衝撃に損なわれ、肉体的な死こそ免れたが、そのことを引きずりながら生きている。解決されない謎(灰田のことや、シロの死)も抱えている。これってやはり地震被災者を多少考えているのだろうか。とはいえ、小説の主人公が受けた衝撃はあくまでもメンタルなもので、直接的な暴力ではない。やはり考え過ぎなのかもしれない、などと逡巡する。

他にも小説内では豊かで濃密だった地方のコミュニティが(不条理・不合理な理由で)突然崩壊してしまう様子や、理由の分からない死(シロの死)、トラウマからの回復、人と人との共感の真実・・・。などが描かれている。これらも地震との繋がりが考えられなくもないが、実はこれらは村上作品には前からあるモチーフ*1なので地震の影響というのは無理があるようにも思う。


最後に僕の想像と期待を述べる。地震については、村上春樹という鋭敏な感受性を持つ巨大な作家の中で、あまりにも衝撃が強すぎたことから、今は沈殿、発酵している段階で、作品として外に出す段階ではないのではないだろうか。おそらくあと数年したら、大きな小説となって立ちあがってくるのではないかと思う。今回の新作はウォーミングアップというか、軽いジャブである。そう期待したい。

*1:地震というイベントが無くてもこれだけのことをモチーフとして追及してきたからこそ、村上春樹は偉大なのだ、とも言えるだろう