ハンナ・アーレント/マルガレーテ・フォン・トロッタ監督




岩波ホールにて現在公開中。家人の推薦により観に行く。


ハンナ・アーレントといえば、政治哲学者としての名前くらいは知っている、というレベルで詳しくは無い自分でも理解はできる内容だった。
しかし、映画として純粋に面白いかといえば、他にもっと「面白い」映画は沢山あると思う。(より直截的にいえば、映画として面白い部類ではない)


アーレントは、若き日にはハイデガーの愛人だったとか、フッサールヤスパースにも師事した、というウィキペディアの人物紹介を読んで(凡庸ですみません)、ライフヒストリーをクロノジカルにやるのかと思ったら、そうではなく、この映画は「アイヒマン論争」と呼ばれる一局面を切り取って構成されている。


アイヒマン論争。


これは、600万人と言われるユダヤ人虐殺に大きな役割を果たしたアイヒマンという人物を1960年代にモサドが捕まえて裁判になった話をめぐる論争である。当然、世の中は「極悪人。悪魔的な悪」という風にみなす。特にユダヤ人社会は当然そう思っている。しかし、自身もユダヤ人でナチスに迫害された経験をもつアーレントは、裁判を傍聴して発表したレポートの中で「アイヒマンは、ただの凡庸なおっさんで、組織の中で言われたから大虐殺に関与したに過ぎない。それにユダヤ人側の地域リーダー達が、ホロコーストの進展にプラスに作用してしまった部分もあったのでは」というようなことを当時のステータス誌「ニューヨーカー」に書いた。そしたら、世の中は今で言う「炎上」。そんなはずねーだろ、おまえはユダヤ人を裏切るのか、と苦情が殺到、大学の教授なんてやめてしまえ、という話になる。

ここまでが(私の理解した)アイヒマン論争。(より正しくはグーグル検索を参照。アーレントは「悪」というものを真摯に考えた上で、敢えて一人ひとりの「凡庸さ」が悪につながる、と考えることが悪の台頭を防ぐ、と考えたらしい。)


ここから先が私の今の思考なのだが、ここでいうアーレントの主張って、当時の西洋では大炎上してしまったわけだが、意外に日本人には「当たり前じゃん、なんで炎上するの?」という程度のものではないか、と。「○○は悪いこともしたけれど、良いこともした」という論法を聞くと、戦争問題で日本の政治家が発言して、海外で問題になる例を思い出す。それこそ今でも繰り返される「炎上」の方程式とも言える。

 さて、西洋の歴史観の中には、この「○○は悪いこともしたけど、良いこともした」という論法を絶対に適用しない、と決めている分野があるのではないか。特に戦争が絡む部分に。これは一見、自由を旨とする西洋の倫理と矛盾するある種の「偏狭」にも思えるのだが、単純な「偏狭」でもなくもっと精緻なロジックがあるのだと思う。この辺が、私のような日本人が理解しきれていないところだ。

 そして、改めてハンナ・アーレントの主張「ビュロクラシー(官僚的階層組織)の中の駒として、〝自分の頭で考える”ことを、をやめてしまえば、誰だって、大きな悪に加担する/引き起こすことに成りうる」という主張をかみしめたい。(組織行動論を一つの専門とする自分にとっても、重要なテーゼである)


そんなことを考えた映画でした。