コンテンツの秘密ーぼくがジブリで考えたこと/川上量生

 

 

 

僕は別にジブリの熱烈なファンではないけれど、作品は面白いものが多いと思っているし、映画全般については大好きだから、本書の考察はとても面白く読んだ。宮崎駿(主人公に感情移入させるようにつくる)と高畑勲(主人公にわざと感情移入させないように作る)の違い、なども両者の映画を見ている自分としては、大変興味深いものだった。

 

 

川上さんは、普段のビジネス誌のインタビューなどでは、敢えて「ふわっ」とした物言いをすることが多いように感じる方だが、本書を読むと、とても突き詰めて考えられる方だということが分かる。コンテンツ論も面白く読んだけど、最後の方のこの一節がとても印象に残った。

 

 

米国ではコンテンツをつくるときにプロトタイプをいっぺん全部つくってしまうのです。つくってしまってからみんなで寄ってたかってここが悪い、ここをこうしたほうがおもしろいと話し合うのです。  お金も時間もかかるので、とても日本ではできないやり方です。  しかし、実物を見ながら議論できるので、そのほうがクオリティは上げやすい。

 

このやり方について吾朗さんがこんなコメントをしたのです。 「このやり方だと天才が要らない」  実際にプロトタイプをつくってしまうことで、天才がいなくても素晴らしい作品がつくれると指摘したのです。 「逆にいうと、日本が対抗できる方法がひとつだけあって、天才がいればいい。宮崎駿がいればいい」  そう、吾朗さんは言い切ったのです。つまり、実際にできあがったものを見てああだこうだと言うのは天才でなくてもできることです。天才は実際につくらなくても脳のなかでシミュレーションできるというのです。  たぶん、実際にプロトタイプをつくるのに比べて、天才が脳のなかでシミュレーションするほうが、精度は落ちるだろうけど安上がりだ。日本が対抗するにはそれしかないというのです。 「天才は安物のシミュレーターですか。ひどい表現ですね」  ぼくは思わずおかしくなったのですが、本当にそのとおりだと思ったのです。

 

「でも日本みたいな貧しい国は、天才を使って対抗するしか戦う方法がない」  そんな会話を吾朗さんとしたのですが、これは天才とはなにかという定義になっていると思います。

 

天才とは自分のヴィジョンを表現してコンテンツをつくるときに、どんなものが実際にできるのかをシミュレーションする能力を持っている人である。これが吾朗さんとの会話をふまえて、ぼくが得た天才の定義です。 

 前線での戦いを見た方の言葉だけに重い。