反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体/森本あんり

 

反知性主義: アメリカが生んだ「熱病」の正体 (新潮選書)

反知性主義: アメリカが生んだ「熱病」の正体 (新潮選書)

 

 

 
図書館予約がようやく到着したので読んだ。
 
キリスト教(特にプロテスタント)とアメリカ史にある程度の基礎知識が無いと、スラスラ読んで理解できる本ではないと思うが、この二つに元から興味がある僕としてはとても面白く読んだ。加えて映画もたくさん引用されているので、映画好きとしても嬉しい。映画でいえば、個人的ベスト級の「ゼア・ウィルビー・ブラッド」のイーライの事を、この本の「リバイバル」の記述を読んで思い出した。
 
この本を巡る状況については、このブログ記事がよくまとめている。よくもまあ、丁寧に書いてくれた、、という感じで筆者に敬意を表したい。(自分にはとても、ここまで書いている時間と理解力がない)
 
僕は上でリンクしたブログ記事*1にほぼ同感だ。
 
個人的には、「日本会議」的なもの*2を「反知性主義」だ!と批判する行為について、学術的な意味では正しい用法じゃないぞ、と批判するのは野暮だという気もする。同時に、そういう風に批判している人々は一応学を修めたインテリであるのに誤用法はやっぱりよくないんじゃないか、というのももっともな指摘だとも思う。
 
自分もこんがらがってしまったので整理してみる。「反知性主義者」と日本語で適当に言い得る人々には、「自分もインテリなんだけど「権威や権力」には盲従しないぞ!という人=1」と「学問的系譜、科学的蓄積を軽視して感性重視で考える人=2」と「プロテスタント的信念に基づく平等感か積極的に知性を疑う人=3」の三パターンがあるようだ。日本では宗教的背景から、(学術的意味での「反知性主義」である)3はほぼ居ない。1と2はそこそこいる。数としては2が圧倒的に多いが、メディアで積極的に発言するのは1も多い。
 
1の人の中の一定割合は積極的に2を批判する。やはり「啓蒙しよう」という意識が働くようだ。2は本来あまり1に興味がないように思うのだが、最近は2も1を批判し始めた*3、というような状況かと思う。あと、斎藤環先生の提唱している「日本的ヤンキー」は2と重なるイメージだとも思った。
 
で、僕はなんなの?というと3の養分はなく「1」と「知性主義」と「少しの2」くらいで出来ている。僕も2については啓蒙?したいとは思う気持ちは否定しないが、そのメッセージの届け方については色々思うところがある。特に、1の多数派がやる方法*4は違うな、とは思っている。むしろそれが2を育てている、というのが僕の見方だ。1が2に伝えがちなメッセージは「もっと勉強しろよ!」というものになってしまうように思う。あるいは、啓蒙しようとして、また根拠のない感性メッセージを発する(命の重みは絶対!)とか。
 
そうか。アメリカでは確固とした知的権威(ハーバード、エール、プリンストン)への反発「反知性主義(上の3)」を育てたが、日本では「権威・権力には盲従しないぞ、というインテリ(しかも、一般人を啓蒙しようとする)」への反発、が「反知性主義(上の2)」を育てた、と言えるのか。このあたりが、今の僕の理解。
 
少し脱線すると、日本では2の層の支持を得ないと物事は動かない。何かと批判される安倍政権はそのことについて意図的なのか感性なのかは分からないが上手くやっている。逆に政権脱落後の民主党はマジョリティである2に響かないことばかりしている。支持率調査の結果がそれを示している。民主党の課題は政策ではなくこのアプローチだと思っている。
 
著者の森本教授は、プリンストン大学で神学博士号をとったアカデミシャン。キリスト教神学系の著者でいえば、佐藤優が思い出される。佐藤優の本を読んだ時にも思ったことだが、「神学」という学問独特の凄みが記述の中から感じられて、それが楽しかった。
 
あとは、本書はアメリカのビジネスパーソン(特にホワイトカラー)の勤労倫理の源流を探るという意味でも大変読みがいがあるが、もう長くなり過ぎたので別の機会にまとめたい。他の人のブログを「長い」などと言った割に、興味のある話題なので自分も長くなってしまった。

*1:実は本書に取り掛かる前にこのブログに目を通してしまったのだ。小田嶋さんのことが本当に後書きに書いてあってびっくりした。せっかくだからお二人の対談も読もう。

*2:すいません、これくらいはなんとなく普通に分かる人を対象に書いてます

*3:そもそも戦後日本はこの矢印が少なすぎたのではないかな。あるいはインターネットというツールが従来からあったこの矢印を「可視化」したとも言えるかも。

*4:例えば朝日新聞的なお説教