キリスト教映画として見る「ヒューゴの不思議な発明」

GODと人間=メリエスとロボット


 宗教社会学橋爪大三郎先生から次のような説明を聞いたことがある。

 一神教における神(GOD)と人間の関係を表現すると、理系の大学生がよくやっているロボットコンテストで、ロボットを作る側が「GOD」で、作られるロボットが「人間」に相当する。作り手が材料を集めてその意思で作ったのが、ロボット。作り手が全ての権限を持ち、ロボットはその範囲内で活動する。気に入らなければ壊される運命。 ロボットからしてみれば、作り手は全知全能の存在。これが一神教におけるGODと人間の関係の基本。

 八百万の神様を持ち、お祭りが来れば神様がやってきて遊んでしまうことすらある日本人にはとても受け入れがたく肌感覚では理解しがたい考え方、であり、これが「GOD」と日本の神様の違い。


 この説明を聞いてから、西洋の映画を見る際に、人間とロボット(または人形)が出てくると「ああ、これが(キリスト教的な)神と人間の関係」なんだなと思って見るようになった。そうしたら、映画がとても面白くなった。

 その見方でいくと、今回の映画でも、ロボット(映画に出て来た機械人形)はまさにキリスト教の人間的に描かれていると理解できる。

 この映画に登場するロボット(人間の暗喩)は過酷な運命の前に何も出来ない。造り主から捨てられ、振り回されるだけである。最後、線路に落とされて、破壊の淵に追いやられても何もできない。しかし、結局は救われて、最後は、創造者であるメリエスじいさん(GODの暗喩)にがっしりと抱きかかえられる。このシーンを見たときには、「ああ、やっぱりキリスト教的物語なんだな」と思った。

 ちなみに、映画の途中には、主人公の男の子が自分もロボットであるとの夢を見るシーンがある。 これのシーンはロボットに人間を投影していることの暗示だろう。

 以上、まず、一神教における「GOD」と「人間」を、ロボットを製作した「メリエス」とロボットに置き換えて説明した。そして、この映画にはもう一つ、キリスト本人的な位置付けで描かれているキャラクターが居て、それが他ならぬ主人公のヒューゴ・カブレである。


カブレ少年はキリストの暗喩

 橋爪先生の講義に戻ると、


キリストは、絶対神と人間の間に、それを繋ぐ媒介者として存在した。


との事である。


 カブレという男の子が、「映画の前半で死んでしまって(目に見える形としては)不在である父」の力を借りて、愛により困っている人(メリエス老)を助ける、という構図は、カブレをキリストとして見ればとてもキリスト教的である。

 映画最終盤で鉄道保安員に捕まったカブレは「お父さんはどうして居なくなったの?」という叫ぶ。お父さんとは、もちろん「主=GOD」のことだ。
 この叫びは遠藤周作の「沈黙」を思い起こさせる。ちなみに、スコセッシ監督は現在、「沈黙」の映画化を進めているそうで、とても偶然とは思えない。


映画全体としては二重の構造になっている

 全体として整理すると、メリエス老は、自作のロボットに対しては、創造主=神のポジションに居るが、実はもう一つ、迷える魂を持った人間という側面も持った二面性のある存在として描かれている。結果として、この映画ではメリエスを媒介として「神」=「人間」の構造が二つ重なっているとも言えるのではないだろうか。

図解



神(強いて言えばカブレの「父」)→カブレ少年(キリスト)→メリエス:人間

メリエス:神→ロボット:人間



 ヒューゴの不思議な発明を見て、以上のようなことを勝手に思って楽しんだ。

おまけ

この脚本が優れてこの構造を取り込んでいるのは確かだと思うが、西洋の映画は、こういう世界観で見ると、かなりの割合でこういう解釈ができます。よくある構図といえばよくある構図とも言えるのではと思う。
 意識的・無意識的にクリスチャン世界の人にとっては「ヒューゴ」はとても馴染みやすい物語であろうし、そうでない人には「良い話だけど、うん」で終わる可能性もあるだろう。自分は、こんな見方をして二重に楽しんでるので、満足です。