吉本芸人親族の生活保護を巡る問題を契機にパーソナルメディアについて考えたこと

最近、河本準一氏とその親族を巡る福祉の問題で、ネット界が炎上して、本人が謝罪会見までする、という事件があった。

「ネット界が炎上」と書いたけれど、確かにヤフーコメントや2chを見れば炎上と言って良い状態で、中身としては「ふざけるな」「制度を悪用するな」「片山・世耕もっとやれ」という意見が非常に多い。



一方、自分もTwitterFacebookというソーシャルメディアを活用しているが、そちらの方の自分のタイムラインでは、この問題に対する意見表明は無いではない、という程度の量にとどまっており、炎上とはほど遠い。しかし、少ないそれらはむしろ「一芸人を叩いて何になる」「これを機にもっと社会保障を政治哲学的に考えろよ」というものが大半。自分もそういう意見に同感だが、このエントリではそこに深くは立ち入らない。*1



前者(マス)と後者(SNS)で、あまりにも反応が違うので、不思議に思った。



理由は何だろうか。

匿名と実名の違いだ、という仮説を立ててみたが、たとえば、原発を巡る問題や、大阪の市長を巡る評価などは、自分のSNSタイムラインでも賛成と反対の意見に割れており、マスに類似した多様性がある。しかし、今回の生活保護問題については、殆ど割れていない。

自分がSNSでフォローする人は自分で選んで決めている。特に僕は割と意志的に選んでいる方だと思う。共感出来る人ばかりを集めているつもりもないし、精査して厳選しているというほどではないのだが、単純に絞らないと量が多過ぎて把握しきれないので、選んで登録しているのは事実だ。


SNSというパーソナルメディアを使い始めたころは、この選択行為によって自分のインプットに「偏向」が出ることを自分でも警戒していたのだが、半年くらいしたらすっかりその警戒心は無くなってしまった。(これがSNS慣れの怖いところなのだろうか)




話を生活保護批判の方に戻す。今回の事案については、自分のSNSのタイムラインでは意見が割れていないという事の理由を考えると、僕が選んでいる人々の根底的な基準に、「こういう問題で個人叩きに走るような人は排除する」というものが、無自覚ながらあったのかもしれない。


だとすれば、「自分、カッコいいじゃん」と言えるのかもしれないが、一方で、世の中を素直に眺めれば、今回の事案に対して対象者個人に対して激しく憤る人はかなり多いわけで、そういう現実から目を背けて自分を同じ価値観の中だけで心地よく居ることが、本当に良いのだろうか、という疑問もある。(それに、自覚が無いのに何かの基準で選んでいる、ということがあるのなら、多分他にも無自覚にそういう事があっておかしくない。)



変に凝り固まった人間にならないことを目指すのであれば、僕はもっと、フォロー対象の領域を増やして「河本に罵詈雑言を浴びせる」ような人もフォロー対象に入れるべきなのかもしれない。しかし、それはそれで疲れる人生だろう。



(反対に、芸人個人に罵声を浴びせている人のSNSタイムラインは、おそらくそういう意見一色で埋まっているのだろう)



パーソナルメディア時代とは、なんともややこしいものだ、と思う。



追伸


河本頑張れ。

*1:たとえば、以下のような議論が参考になるhttps://www.facebook.com/sasaki.toshinao/posts/10150927913787044