スティーブ・ジョブズ氏逝去


10月5日の日本のネット界の話題は、ジョブズ氏逝去一色となった。

個人的にも

  • 「大学生のとき最初に買ったパソコン(ノートブック)は、ApplePowerbook*1だった」
  • iPodは通算、5台買ってる。そしてiPhoneiPadも持っている」

ことから、ジョブズ先生には大変お世話になった感が強い。


特に、三点目で挙げた、ピクサー社の成功に果たした功績、業績もとてつもなく偉大だと思う。

厳密にはピクサーの創業者やブレーンは別に居て、ジョブズは途中で買収して「訳の解らん要求を突きつけてくる狂った株主」のような感じだったらしいが、それでもジョブズなかりせば、トイ・ストーリーが出来たかどうかは分からない。

そのあたりは、以下に詳しい。(クリエイティブ組織のマネジメント論としてもオススメ)



メイキング・オブ・ピクサー―創造力をつくった人々

メイキング・オブ・ピクサー―創造力をつくった人々



亡くなられて、特に日本では「良い人だった」みたいな情緒が支配しているように感じるが、本当はとんでもない困り者だったと思う。

1960年代のカウンターカルチャーの洗礼を受け、それをビジネス界で実践した思想家、としてのジョブズについてはもう少し掘り下げて考えてみたい。


有名なスピーチ

ネット界ではかなり有名なものだと思いますが、改めて。

最後の、stay hungry!のくだりがとても有名。でも、個人的には、connecting the dotsのところが好き。

*1:多分、ジョブズが追放されてた時に開発されたモデルだと思う。その一台限りでウィンドウズに転向。

自分のツイッターのタイムラインに対する疑問…


You are what you eat.という言い方がある。これに習えば、You are what you read.とも言えるだろう。

コンサルタントという仕事柄、また、プライベートでも家事育児で多忙を極めているため、「情報の摂取」については、効率と質と多様性にかなり気を遣って来た。それをテーマに講演をさせてもらったことすらある(笑)。

そんな中、世間的には遅まきながら、ツイッターを情報収集の手段として導入して3ヶ月が経つ。



今、迷いを感じてきた。

このまま、自分のタイムラインを見続けていて良いのだろうか。それは自分のプラスになるのだろうか、と、という迷いだ。

タイムラインを作って、眺めるようになってから、本を読んだりする時間が結構奪われているのは事実でこれは困ったな…と思っている。
あとは、友人のプライベート情報は、見るのは楽しいが、それに時間を費やしていていいのか?という事も思わないではない。



最大に問題視しているのは、自分で能動的にフォロワーを選ぶツイッターでは、結局、自分の関心事とか、嗜好性(志向性)に合致した意見ばかりが目に入ってきて、視野の拡張、多様性の刺激などに欠けるのではないか、ということだ。なんか良くない雰囲気を感じる。

(具体的に言ってしまえば、男性、都市生活者、高学歴、情報大好き、自己顕示的、自由主義思考、諧謔志向、サブカル好き、というあたりか・・書いてて少し情けなくなってきた)

それに、そのフォローも結構ささいな気持ちで気まぐれにするにも関わらず、その気まぐれなフォローが情報流入の質を決めていく、という事も冷静に考えると気持ち悪い。




自分がフォローしてるのが100人くらいと少数?だからこう感じるのだろうか。もっと無作為に何千人もフォローすれば多様性が確保されるのだろうか。あるいは、他の人の作ったリストを見れば良いのか。あるいは、無作為アンフォローを繰り返すのも良いのかも。


よく分からなくなってきた。




こういった感想を持つこと自体が、情報収集目的でツイッターを使うユーザーの誰もが通る道なのだろうか?
(友人との交流目的、発信目的等、ツイッターの使用目的は色々だと思うので、そういう場合は、こういう風には悩まないだろう)


自分で構築したもの(タイムライン)が、自分を制約するとしたら、皮肉なものである。


また3ヶ月くらいすると別の感想を持っていると思うので、記録として書いておいた次第。

町山智浩氏がpodcastで語る「ケーシー・アンソニー裁判」


7月8日のTBSラジオポッドキャスト)。キラ☆キラのコラムコーナーで町山智浩氏が紹介した事件&裁判がケーシー・アンソニー事件。

2年くらい前から、アメリカでかなりホットなニュース、になっているらしい。ホットというか、炎上状態、テレビもワイドショーもずっとこればかり、という。

このポッドキャストを聞くと、事件のこともよく分かるし、その後の裁判、裁判をめぐるアメリカ社会の反応や町山さんらしい社会分析もあり、とてもオススメ。ただし「2歳の娘をシングルマザーが殺害した疑惑」というヘビーな内容なので、メンタル的に落ちます。その点はご注意下さい。


http://www.tbsradio.jp/kirakira/2011/07/20110708-2.html



アメリカ社会には素晴らしい面もあるが、最悪な面もある。それはコインの裏表なのか。


最悪の方を聞くと「こんなん、絶対日本はマネしちゃだめだ」と思う。


先日は「近代個人の問題」というテーマで講演を聞いたばかり。そこで思うのは、近代個人主義を極めたアメリカだからこそ、こういう社会になってしまうのか。だとしたらゾッとする部分がある。


かつて「60ミニッツ」というアメリカのドキュメント番組をよく見ていたことがあるけど、そこでよく取り上げられていた「アメリカで起こった鬼畜事件」の数々、を思い出してしまった。

FacebookなどSNSをめぐって(今の段階で考えたことの備忘録)

「一昔前は、その場その場によって、顔を使い分けられる人が、かっこいい大人だった。でも、今、それがかっこ良くない行為だと思う人達が出てきた。そういう人たちは、いつでもどこでも一貫していることの方がかっこいい、と考える」…最近の飲み会での会話より。



一人の人間は同時に複数のコミュニティ(佐々木俊尚「キュレーションの時代」の言葉を借りればビオトープ)に所属している。会社であったり、学生時代の友達であったり。そして、それぞれで微妙に違う顔を使い分けて生きている。

しかし、フェイスブック(FB)の中では、自分の実名というアイデンティティを軸に、それらが平板に統合されてしまう。友人のリスト化や公開範囲という機能を使いこなせば、ある程度複数の顔を使い分けることは可能らしいけれど、今は皆、そこまで使いこなせていないように見える。それに、機能の問題以前に、ネットで複数の顔を使い分けるのは面倒だ、というのが正直なところだ。

従って、FBの近況に書き込んだことは、会社の同僚にも、趣味の仲間にも、大学の同期にも、昔のクライアントにも、あるいは実の家族にも、等しくばらまかれることになる。だから、僕のような小心者は、なかなか思い切ったことを書きづらくなってしまう。「実名だから」という躊躇ではない。個別のビオトープに、同じ情報を投げ込んで良いものか、という疑問があるからだ。僕がかなりバラバラのビオトープに所属している、という特殊事情が関係しているかもしれない。フェイスブック上でもわりと一つのビオトープに所属していると、こういう悩みは少ない可能性もある。



一方で、ブログやツイッターは、一応「読みたい人だけが見に来る、登録してくれている」し、自分も「組織人事コンサルティング」という切り口を決めて発信しているので、(切り口に沿った発信をしてないじゃないか、というツッコミはさておき・・・)あまり気負わずに発信が出来る。


しかし、フェイスブック上で、友達承認をし合った人々は、別に私の仕事(あるいは特定の趣味)に興味がある人ばかりでもないので、そうした人々に私の(その人にとっての)別の顔を押し付けるのは、なんとなく悪い気もする。それとも、仕事とか趣味というレベルでなくもっと深層の「自分という人間」をさらけ出せば(笑)良いのだろうか?それもちょっと違う気もする。



グーグルが発表した新しいSNSは、この「顔」の使い分けを便利にする機能が充実していることを売りにしてきているようだ。果たしてどうなるのだろうか。



興味のつきない、楽しい時代ではある。

ツイッターとフェイスブック


震災から 1ヶ月以上経ち、4月になってから、ツイッターに登録してみた。ちなみに、フェイスブックは半年くらい前から、ちょこちょこやっている。

ツイッターでは、これまでも、ネットやメディアでフォローしていた有名人(あくまで自分にとっての)系を40名ばかりフォローした。それから、約一ヶ月が経過したので、その感想*1を記してみよう。



・自分の性質をある程度わかっていることから、今まで警戒してツイッターには手を出さないようにしてきたのだが、その予想通り、ただでさえ忙しい自分の時間を確実にツイッターに奪われている。タイムラインがかなりのスピードで更新されていくため、ちょくちょく確認してしまう。*2


ツイッター上のつぶやき(あるいはフェイスブックの近況)は、かなりの部分が「自分ってこんなに視点が鋭いぜ」「自分はこんなに充実した生活をしているぜ」「まあ、どうでも良いことなんだけど、誰か聞いてくれないかなぁ」という欲求で行われ、それに「イイね」とか「リツイート」により、承認欲求が満たされてブーストしていくように見える*3


・従って、瞬間、刹那的な「自己顕示欲」みたいなもがツイッターでつぶやくことによって解消される。そして、ブログを書くエネルギーは失われる。(だから、ツイッターを始めるとブログを殆ど、書かなくなる人が多い)


・昔、ブログを熱心に書いていた人が、今は、「ツイッターでちょこちょこつぶやいて、ブログは週に1回」みたいになっている例が増えている気がする。


・瞬間の「自己顕示欲」って割とプライベートな領域に類することだったり、思いつきだったりするので、思わぬ一面を見せてしまう(見えてしまう)ことがある。それはツイッターの面白さかもしれない。


ツイッターは、瞬間の「自己顕示欲」は満たせるけど、本来的な「力量」を示すには、不向きだと思う。そのためにはやはりまとまった量の文章を書かなくてはならないだろう。


・よく言われることだが、ツイッターフェイスブックは、「キュレーション」や「リコメンド」行為には非常に便利。確かに画期的だと思う。単にキュレーションするだけだったら、本当にツイッターとFBだけで事足りる。(佐々木俊尚方式!?)


ツイッターは、価値観が同じクラスターの中でフォローしあう傾向がある気がする。自分の思考(志向や嗜好)は強化されこそすれ、広がらない。自分のTLでは、石原都知事をDISる人しか居なかった。情報量のわりに多様性は少ないかも。


ツイッター界では既にフォロワー数でかなりの差が着いており、今から参入するのは明らかに後発組。フォロー数を上昇させていくには、積極的な「営業」行為が必要となりそう。でも、その意欲が湧いてくるかどうかが問題。


・140字という制限(フォーマット)はよく考えたものだと思う。ダラダラ掛けないので文章を練り込むということもできるし、自分も含めて怠惰な人間にとって最高な「とにかくラク」という利点も兼ねあわせている。


・コンサルという自分の職業に強引に引きつけると、140字とは一つのスライドのメッセージとして許容されるギリギリの文字数であるような気がする。これから140字チェックを導入してみようか…。


ツイッターのつぶやき、とフェイスブックの近況、って微妙にコミュニケーショのレイヤーが違っている感じがする。ツイッターでは違和感のない発言が、フェイスブックは違和感があったり。このへんはコミュニケーションの機微として大変興味深い。


・それにしても、GoogleリーダーRSSフィード)、ツイッターフェイスブックのニュースフィード、とネットから入る情報が指数関数的に増大している。これでやっていけるのか、本当に必要なのか、自分に必要なのはむしろインプットではなくアウトプット(原稿書き)なのではないか、など考えてしまう。今後、もう少し整理・洗練させていく必要がありそう。


・最大の教訓は「何事も、やってみないと分からないものだ」(毎度の教訓ですが)




ちなみに、試験運転中モードの私のツイッターアカウント(FBには非連動)は当面は公開しない予定でありますが、別に隠すわけでもありません。見つけたらフォローして下さい。

*1:まだ中級者とも言えないレベルだと自覚。レベルが進んでいけば違う感想が出てくると思うが、現時点のものとして一度まとめておく

*2:スマホからが中心

*3:あくまで個人的にそう見えることが多いというだけです…

寄付のポートフォリオ

東日本大震災

これまで日本という国にお世話になり、お給料を稼がせていただいている自分としては、しっかり寄付をしないといけないと思っている。


そこで、こんな感じのポートフォリオで寄付をしてみた。




勤め先の募る寄付
愛社精神というほどのものではないが、今、自分は、この会社からお給料を貰っているわけで、まずはココに一定の金額。



講師をしているグロービスの募る寄付
ここは、堀代表のリードで、マッチングギフト方式の寄付をしている。すなわち、集まった金額に、グロービスが同額を上乗せして寄付してくれるのだ。これは、投資効果が高い。堀代表の素早い決断と実行を尊敬する。



杉並区が姉妹都市である南相馬市のために募る寄付
我が居住の杉並区は、南相馬市と災害時相互支援協定を結んでいた。南相馬といえば、原発問題で大変苦しんでいる。東京で使う電機のために。この罪滅ぼしのため、というわけではないが、地元商店で買い物したら、お釣りをこの募金箱に寄付。お財布の中身が減るのが早い…。



あしなが育英会への寄付
サラリーマンの平均年収を超えた年に、どこかに寄付をしたいと考えた末に、この団体を選んだ。海外よりも日本の仲間、若者の機会均等が自分にとって大事なテーマだったので。その年以来ずっと、毎月この団体に一定額(少ないけど)の寄付をしている。実はこの団体について疑問に思うところもあるのだが*1、それでもやはり若者を支援したい。

http://www.ashinaga.org/



大体上記に等分にしている。



寄付は一つの意思表明だと思う。それぞれが考えて自分の主義ですれば良いと思う。



あとは、東北の酒を飲む。ワインパーティーは日本酒パーティーに切り替え。



自分の場合はこんな感じです。

*1:何しろ長年、会報を読んでると、ちょっとガバナンス的におかしいと思うところはあるわけです

日本経済新聞 私の履歴書 安藤忠雄

 日経の今月の「私の履歴書」は安藤忠雄(建築家)。楽しみである。

安藤忠雄といえば、個人的に思い出すのは、この東大入学式での「親が子供もの大学の入学式について来るんじゃない」スピーチのニュース。

平成20年度入学式(学部)祝辞

平成20年(2008年)4月11日

建築家・東京大学特別栄誉教授 安藤忠雄

(略)

ここにいる3千人強の学生たちは、今日、幸福な形で入学したのですが、この式に立ち会われている6千人を超える家族の方々、この日は巣立ちの日だと思って、親子関係をしっかり考えてもらうほうがいいと私は思います。 “親は子を切り離し、子は親を切り離せ。” 極端なようですが、子供が大学生にもなったら、子は親を離れ、親は子離れすることが必要です。自立した個人を作るためには親は子を切ってほしい、本当の親子関係をつくるなかで、個人の自立があると考えます。個人の自立なくして、「独創力」や常識を疑う力はなかなか生まれないのではないでしょうか。

(略)


全文はこちら


思い出されるのは、うちの親はこんな考えで自分の大学(東大じゃないけど)の入学式に来なかった。

周りは両親連れで晴れがましい親子がやたら多かった。少し寂しく感じたような記憶もある。

まあ、でも今は、それで良かったと思う。

自分も多分、子供の大学の入学式には行かない。