追悼_立川談志。

この方が善人だったとか、全く思いませんが、とても稀有な方だったとは思います。


過去に、こんなエントリをこのブログに掲載していたところ、かなりのアクセスがあったので、改めて再掲します。


伊集院光立川談志によって深層心理を見ぬかれた噺

http://d.hatena.ne.jp/hiroki_nato/touch/20110129/1296249902



戒名は、立川雲黒斎家元勝手居士(たてかわうんこくさいいえもとかってこじ)。生前、自分で決めていた。

というのは、「らしい」の一言。






ご家族の会見で一番印象的だったのは以下のやりとり。

ワイドスクランブル・オザワ氏(以下、オザワ): さきほど弓子さんは、人生で最初で最後かと思うほどべったりといらっしゃったとおっしゃっていました。慎太郎さんは皆さんがイメージしているとおりの立川談志でしたとおっしゃいましたが、こんなにジェントルマンかと思ったとおっしゃったということは、弓子さんにとって、父親としての談志師匠は違う存在、イメージだったということですか?


弓子: 3月に声を失ったということは、あのお喋りで毒舌の父が一言も口をきけなくなるということは、それはそれは切なくて、いじらしく・・・。ただ声を失わなければ、味わなかった思いはもちろんすごくたくさんあったと思います。それ以前の父は本当に破天荒で、私たちの子供のころからテレビで言っていることと家で言っていることは全く同じですし、家族に対して愛情が深い人でしたけど、全く外と家の乖離(かいり)はありませんでした。

 ただ、声も失い、自分で自分のことがどんどんできなくなったときに、そういう方が今多いと思いますけど、在宅介護、要介護度5になりまして、そうなったときに、なってみないと分からない思いは双方にあったと思います。



オザワ: それは双方にあったという意味合いでいえば、師匠自身が言葉にならないながらも変化というか、変わったというのは、どういうときに具体的に感じましたか?


弓子: 自分で戒名もそうですけど、勝手な人だったのが、結局我慢をせざるをえないわけじゃないですか。吸引もされなければいけないし。してもらわなければいけないことがたくさん発生するわけですから、そうなったときに「お願い」という言葉に、姿とか。しゃべれたら、たぶんなかった・・・。

 ものも食べれなくなりましたけれども、あまりものを食べたいとかは言わず、やっぱり「しゃべりたい」というほうが多かったです。


自分が大尊敬する毒蝮三太夫師匠*1には、まだまだ元気で活躍して欲しい。今一番思うのはこの事です。

*1:いわずとしれた談志の盟友。ラジオの鉄人。この人は本当に神。